「お四国病」という言葉がある。四国遍路から戻った人が、もう一度、もう一度と憑かれたように四国へ出かけたくなるのがその病状である。私自身も確実に四国ウィルスに感染していると思う。また、一方では「お四国病院」という言葉もある。しょんぼりして四国に出かけて行った人が見違えるほど元気になって戻って来ることからできた言葉だと思われる。毎年、毎年多くの人たちが四国に渡る。準備万端遍路の準備を整えてやって来る人もいるし、後先考えず家を飛び出してきたという人、会社の上司に叱られ四国へ行けと命じられてわけも分からずにやってきたという人、癌に侵されて余命の宣告を受け、歩ける所まで歩いて、ダメになったらそこを終焉の地にするのだという人もいる。どんな事情があるにせよ、白装束の遍路を四国はそのまま受け入れてくれる。
 静御前も実は遍路の一人だったということはあまり知られていない。彼女は源義経の愛人で、都で評判の白拍子だった。母も高名な白拍子で磯禅師と呼ばれ、平家物語に登場する祇王・祇女や仏御前を育てた人物だったという。一ノ谷で平家を破り意気揚々と都に凱旋してきた義経は静をみそめ愛し合うが、二人の幸せは長くは続かなかった。義経は鎌倉の兄頼朝に追われる身となり、都を離れる。静は彼についていくが、女人禁制の吉野山で別れねばならなかった。母のいる都へ戻るけれど、鎌倉方に捕らえられて母とともに頼朝のもとに送られる。そして頼朝の求めに応じて鶴岡八幡宮で舞を舞うことになる。都で評判の白拍子とはどんなものか、鎌倉の御家人たちは興味津々、眼をぎらつかせて静を見ている。やがて現れた白拍子静、男装の麗人の舞姿は「天女とまがふばかりなり」と吾妻鏡にある。美しい声で源氏を寿ぐ賀詞を歌い始めたが、途中で様子が変わった。
 吉野山 峰の白雪踏み分けて 
 入りにし人の跡ぞ恋しき
 しづやしづ しづのをだまきくりかへし 
 昔を今になすよしもがな
 義経を恋い慕う歌になっていた。頼朝は激怒し切り捨てよと命じるが、妻の北条政子がこれをなだめて思いとどまらせた。しかしこのとき静は懐妊しており、お腹の子が女の子なら許すが、男子だったら直ちに死罪と言い渡される。母子は鎌倉に留め置かれて出産の日を迎えることになった。やがて出産、男の子だった。狂ったように赤子を抱きしめて泣き叫ぶ静、その手から奪われた赤子は由比ガ浜から海に沈められた。一月程してどうにか動けるようになった静と母の磯は都へ戻った。ここまでは鎌倉幕府編纂の歴史書「吾妻鏡」にある記事だが、都に帰ってからの母子の消息を記したものはない。だから静の墓と呼ばれるものは全国に存在する。しかし私は昔四国の先達さんに聞いた話と、森本繁著の「白拍子静御前」を参考に、想像も交えて文を綴ることにする。腑抜けのようになって、何をする気にもなれない静を、母は何とか元気づけたい。都の貴族たちは今も白拍子静を待っている、もう一度白拍子として頑張ってみようと励まし続けるが、しかし、とどめを刺すように、義経戦死の知らせが届いた。母は都での芸能生活を諦めた。そして、静を四国遍路に誘ったのである。母磯禅師の故郷は讃岐大内村丹生小磯(東かがわ市小磯)であり、故郷にしばらく仮住まいをして静の身心が落ち着くのを待った。そしてゆっくりと近くの四国霊場を回り始めた。少し南へ下れば阿波の国、一番霊山寺、二番極楽寺、三番金泉寺、手を合わせて読経を続けるうちに、それこそ、薄紙を剥がすように、少しずつ、少しずつ、心の傷が癒されていく。のどかで空気の澄んだ緑豊かな田舎道を歩けばいつの間にか健康を取り戻していく。十八番恩山寺、十九番立江寺の間には、義経が弓の弦を張ったという弦巻坂、弦張坂という地名が残る。ここは義経が屋島の合戦に向かう際、馬を走らせた道、深い悲しみに沈む静にも、元気なころの義経を肌で感じることができる道中なのである。あまり無理はできないから、土佐までは行けないだろう。讃岐の霊場にもどって、八十六番志度寺を打ち、八十七番長尾寺へ。長尾寺に参詣し住職の話を聞くうち二人の気持ちがすっと楽になったという。この寺で二人は出家した。境内には静の剃髪塚が遺されている。長尾寺の少し南に小さな庵を結び、薬師如来を祀り、念仏三昧の穏やかな毎日が始まった。今も静薬師と呼ばれる小さなお堂が溜池の堤の傍に立っている。歩き遍路のコースからは外れているから訪れる人は少ない。お堂の横に墓石が三つ並んでいる。母のお墓は長尾寺にあるから、この墓石は静御前と侍女の琴柱(ことじ)、それに真ん中にある小さな石は生まれるのを待って命を奪われた男の子の供養塔だろう。穏やかな生活は二年足らずの短さで幕を閉じた。悲しい終焉の話はここでは書かない。ただ、ここでの短い時間が静を救ったのだ。
 「お四国病院」という言葉を聞くとき、まず浮かぶのは静御前の生涯であり、この薬師堂である。戦乱の世に生きた女性はそれぞれ計り知れぬ苦しさを味わっただろうが、鎌倉でいわば敵に囲まれての出産を強いられた静を思うと体に震えがくる。子供を産んだ経験のある人なら陣痛の辛さを思い起こすはずだ。大声で助けを呼びたくなるほどのあの激しい痛み、もうすぐ元気な赤ちゃんが生まれると思うから頑張れるが、静にはそれも許されない。せっかく授かった義経の忘れ形見は瞬時に連れ去られた。産後間もない身で鎌倉から京都へ一体どうやって帰ったのだろう。馬にしても、輿にしても、想像を絶する過酷な旅だったろう。無事に逃げおおせてほしいと祈った義経の死の知らせが無情にも届く。精神に異常をきたすか、命を絶つか、そうなってもおかしくない状況にあった静が四国にやってきて、薬師堂での念仏三昧の生活を手に入れた。恋しい義経と何も分からぬままに殺された幼い子供の供養をすることが最後の生きがいだったのだろう。「お四国病院」に手を合わせたくなる。
大坂の富田林の留置場から逃走した容疑者が話題になった。山口で身柄を確保されたその容疑者は途中四国に渡って遍路のまねごとをしていたという。これまでどんな生き方をしてきたのかは知る由もないが、四国での遍路体験はこれまでで一番楽しい期間だったのではないだろうか。多くの人たちの親切を裏切りはしたけれど、少しでも人の温かさが身に染みたなら、まっとうな人生を取り戻してくれるのではないかと淡い期待を抱いている。