毎年、四月の十日過ぎに四国遍路に出かけている。四国の桜の盛りを少し過ぎた時期に出会うことが多いのだが、今年は違った。全国的に桜の開花が遅れたせいもあって、どこもかしこも今を盛りに咲き誇っている。まさしく花遍路と呼べる貴重な体験をさせてもらった。
 一番霊山寺の近くは桃の畑が多い。その鮮やかな桃色もまだ残っていた。二番極楽寺の宿坊玄関前には枝垂桜、それにやさしいピンクの石楠花が開き始めていた。四番の大日寺は境内の桜も見事だけれど、水仙やチューリップやミニ金魚草やアイリスや、様々な春の花が花壇を彩っている。
 一泊目の宿坊、六番安楽寺の境内は桜と花桃と赤い椿が競い合い、八番熊谷寺への参道も桜舞う中をご詠歌が流れて心地よい。十一番藤井寺の藤は5センチ位の花穂をびっしり付けていた。十二番の焼山寺を打って、二泊目の宿を神山温泉に決めている。神山は枝垂桜の里である。もう十年ほどの付き合いになるが、初めの頃は木も若いし、ちょうど満開の時期に出会うことも少なかったから、美しいという印象はあっても、まさかこれほどとは思わなかった。
 人里離れた山の中に、次から次と艶やかな枝垂桜が登場する。おおーっ、うわあー、きゃあー、バスの中は感嘆詞の乱れ打ち、ついには拍手が沸き起こった。確かに、洗練された見事なショーを観ている感じになるのである。道路の両側の斜面には、つやつやした若草の緑、その上に連翹が黄色い枝を広げ、その上にピンクの枝垂桜が揺れる。ため息が出る。十二番札所の焼山寺から程ない場所なのだけれど、十一番藤井寺から遍路転がしの難所を越えて十二番にたどり着き、すぐまた十三番の大日寺を目指す歩き遍路には、よほどの健脚でないかぎり、訪れるのは困難な場所である。神山温泉に宿を取れるのは、バス遍路か、車遍路の特権ということになるだろう。地元の人を中心としたボランティアが、村興しのために、枝垂れ桜を植えていったのだという。
 桜という木は町中にあるとかなり厄介な樹木である。花の時期は確かに美しいが、花が散り、蕊が降り始めると掃除に大わらわ。葉桜になってホッとするのもつかの間、毛虫の糞が落ち始める。晩秋には掃いても掃いても落ち葉、落ち葉。こんな桜が数千本というのは山里ならではの贅沢だろう。掃除、掃除と走り回る必要はない、自然に任せておけばいいのだから。それにしても、今年の神山の桜は圧巻だった。
 十九番立江寺も花の美しい寺である。境内の利休梅が清楚な真っ白な花を付け、牡丹も開き始めている。二十番鶴林寺は山寺であるが、納経所の前の深紅の木瓜が見事だった。そしてその傍らにやはり深紅の実をびっしりつけた大木がある。多羅葉の木だということだった。
 落ち葉を一枚拾って、裏に爪をあてると、すぐに黒くなる。葉書の木と言われる所以だ。二十一番太龍寺は山内の参道脇に古い切り株が並んでおり、その中にクリスマスローズが植えられている。お洒落だなあと感心する。二十三番薬王寺も桜の名所である。今までは花の盛りを過ぎてから訪れることが多かったが、今年は花まつりの提灯がピッタリの時期に出会うことができた。
 三泊目は室戸岬の二十四番最御崎寺の宿坊、「岬の桜は可哀そうです、咲いたと思ったら、雨風であっという間に散ってしまった」と住職の話。確かに花びらがほとんど無かった。
 花の時期は短いけれど、季節が廻り来れば花にはまた出会える。しかし、二度と出会えない風景もある。
 室戸岬に御厨人窟と呼ばれる洞窟がある。絶壁の下に空いた小さな穴だが、奥行き数メートル、奥に入ると灯明台があり、薄暗い中で般若心経を唱え終えて振り返ると、洞窟の入り口の形が窓のようになって、その向こうには、空と海。
 この洞窟で修行していた青年僧は自分を「空海」と名付けた。お遍路にとっては聖地のような場所がこの御厨人窟である。二年前までは洞窟の奥から、確かにその空と海が見えた。洞窟を出ると目の前に広がるのは太平洋、水平線は真横に果てしなく広がって、言いようもない解放感がある。洞窟の中から見た空と海はぎゅうーっと凝縮された宝石のようだった。もう見ることができない。洞窟の前には柵が築かれ、立ち入り禁止の立て札、近づくこともできない。
 これまで一二〇〇年以上も中に入れたことが奇跡に近いのかもしれないが、寂しい。この世に、変わらないものは何もないとつぶやいては見るのだが。

真言宗僧侶 杉村弘月